エセ科学入門(1):血液型診断
ハイパー超越ラジオで話した内容の一つ、エセ科学入門を適当にまとめて書いておこうと思う。
このエセ科学入門では、一般に言われているような○○はこういった科学根拠でエセ科学であるといった話をするものではなく、
むしろ、○○はエセ科学と言われているけど、本当そうなん?と物事を鵜呑みにせずに考えていく姿勢を養うためのものであることを事前に明記しておく。
そのため、この記事には強引な論理展開や嘘が紛れていることがあるが、ぜひ考えることをやめずに、取捨選択していただきたい。
血液型診断とは
おそらく語る必要もないと思うが、A型は生真面目だとか、O型はおおざっぱだとかそういう類のやつである。多くの本や雑誌が思い思いに提示していて、統計とか取っているのか正直怪しいし、非常に眉唾もので、信じているのはちょっとどうなのと思わなくもないレベルである。
あと、血液型診断をネタにした小説で松岡 圭祐氏著の「ブラッドタイプ」なんかも面白いで暇があれば読むといいと思う。
一般的には血液型診断は根拠が薄く、エセ科学だと考えられている。
しかし、私はアンチテーゼの権化なので、違ったアプローチを用いてエセではない可能性を求めていく。
集落と血液型
いろいろと面倒なのでO型とAB型はひとまず無視して考える。
血液型は親の血液型によって決定される。
つまり、親が両方A型なら、子供はA型となる。
では、ここで、ある集落にA型とB型が50%ずついるとし、その集落から別の集落への流出入はないものとしよう。
初めは50%であるが、一人A型が生まれたら均衡は破れ、A型が生まれる確率のほうが高くなる。
結果的に、十分な時間をかけて、淘汰していけば、どちらか一種の血液型のみで構成される集落が完成する。
これは現在の血液型分布を確認しても同様であり、
エスキモーやハワイの住人、また、オーストラリア原住民などの比較的閉鎖的な民族では顕著である。
さて、事実的にも、論理的にも、上記のように、閉鎖的な集落で十分な時間をかければ一定の血液型になることが分かった。
だが、これだけでは性格診断に何の関係があるのか分からない。
続くは、集落と人格である。
集落と人格形成
人の人格を構成するにあたって、大きな要因とは何なのか。
まず親の要因が挙げられるだろう。あとは、友達や学校、地域などなどだろう。
親はその集落で育ったのだから、集落の影響を受けているし、学校もその集落に属しているのだから、集落の考え方に基づいて運営されている。
集落が閉鎖的であれば、考え方が合わないからと言ってその集落から出ていくこともできないため、集落の考え方に順応していくことになる。
宗教や習慣、しきたりなどによって構成される価値観や倫理観が性格の根底にあることもしばしばで、こういったものは地域の影響によるところが大きい。
こういった要因で、カエルの子はカエルなどというが、地域による影響は非常に大きいものとなる。
現実の話であっても、血液型診断をエセ科学と断定する人々の中にも、沖縄の人はおおらかだとか、東京の人はせかせかしているなどという人々は少なからずいるだろう。
つまり、ある閉鎖的な集落や集団がある場合、その集団に属する者は似通った思考、性格になりやすいということを表している。
血液型と人格
ここまで来ればもう言う必要もないかもしれないが、
閉鎖的集落→同じ血液型
閉鎖的集落→同じ性格
といった考え方から、
同じ血液型の人のうち、同じ集落の筋であれば、同じ性格であることが導ける。
日本において人の流出入が激しくなってきたのは1900年代、明治時代ごろからだと考えると、閉鎖的集団から解放されてから高々5世代程度しか経っていない。
まだ、血液型が混ざり切っていならば、過去にあったA型の集落の数だけの性格要素をA型の特徴として記載すれば、A型の人はそのどれかに当てはまることになる。
現在の複数人のA型の特徴の統計から、結果的に過去の集落の性質を推定しているのであれば、その結果は一定の根拠と、事実に基づいたものということになる。
確かに、血液型から性格が診断できうるということになる。
終わりに
さてここまで聞いて、確かに血液型で性格が診断できると感じた方、そうでなかった方、いろいろいるだろう。
ただ、あるテーマを支持する論理が仮に否定されたとしても、その論理が誤っていただけで、テーマ自体は正しいことを述べているかもしれない。
ある一つの側面で見て誤りのように見えたとしても、別の面から見ればそうでないかもしれない。
安易に考えることを辞めないでほしいというのが、このエセ科学入門のテーマである。